REPORT
レポート

For Whom The Bell Tells(誰がためにベルは語る)
2016年12月人生におけるこの1年…

ポールの広報担当ステュアート・ベルのブログより

2017年1月11日掲載


『ザ・ビートルズ EIGHT DAYS A WEEK -The Touring Years』
9月14日水曜日 アビイ・ロード

それは非常によい天気に恵まれた、暑い日だった。9月14日の朝、アビイ・ロード・スタジオの外では太陽は輝き、空には雲ひとつなかった。実際、1911年以来、最も暑い9月で、歴代の記録をすべて破ったという。しかし、天気などはどうでもいい。今日はそれとは別の記録を破った人たちのためにある日だ。世界を永遠に変えてしまった、記録破りの人たちである。

ファンは辺りを散策し、世界で最も写真に撮られている横断歩道でワクワク感と朝の渋滞による苛立ちが入り混ざった感じで自分たちを撮っている。内部ではメディアのクルーがせっせと働き、ポールと友人のリンゴが行うことになる『ザ・ビートルズEIGHT DAYS A WEEK -The Touring Years』の数時間にわたるプロモーションのために、準備を進めている。明日の夜にはロンドンのレスター・スクウェアでプレミア上映が開催されることになっている。スタジオ2の外にある廊下では、ロン・ハワード監督がジョージ・マーティンの息子であるジャイルズ・マーティンと一緒にいて、言葉を交わしている。2人ともPRキャンペーン絡みの仕事があったのだが、実際は彼らも、他のみんなもメイン・イヴェントを待ち構えていたのだ――ポールとリンゴの到着を。

この特別な何日かについて自分の考えや思い出を書き出そうとすると、僕は次のような言葉を使いすぎる危険があることに気付く。アイコニック、レジェンダリー、歴史的、有名な、名高い、輝かしい、などなど。だが、ザ・ビートルズを熱烈に崇拝しつつ育った者にとって(それが僕だけではないことは分かっている)、あの日は本当に忘れ難い1日となった。

午前11時45分、リンゴが到着してまもなく、ポールの車がスタジオの通用口に停まった。2人は抱き合い、笑顔でスタジオ2のドアを通り抜けていく姿は特別という言葉を超える眺めだった。二人は周囲のすべてに感慨深く浸る。あの頃の時間が二人の中でいまも生き続けているのは明らかだ。もし、過去にここで作られた歴史の数々をこの部屋の壁が語ることができたのなら、と密かに思う僕は、この後それよりもずっとすごいものを目の当たりにすることになる。

「すごいな。ここに戻ってくると、いつだってトリップするような感覚がある」とスタジオのドアを通り抜けながら、ポールは言う。「あの頃は昼少し前から働いていたけどね!」

中に入ると、彼はスタジオ2の真ん中に立ち、じっくりと眺める。「僕はいつでも、うわあ、ここからすべてが始まったんだ、と思わないようにと努めるんだけど、でも、とてもじゃないけどできないよ。とにかくトリップ感が強すぎてね」

一方、リンゴは階段を上り、スタジオのコントロール・ルームへと行っていた。「おいポール、僕たちは上にいるよ」と彼は叫ぶ。「僕らはそこに入ったらいけないんだ、大人だけだぞ!」とポールは即座に叫び返し、ザ・ビートルズのメンバーのユーモアは今も健在で、そして面白いということを証明してみせたのだ。

ポールはその後、上の階にある、その日は彼の楽屋として使われる予定の部屋へと向かったが、彼に接した誰に対してもハーイと挨拶をした。スタジオのコントロール・ルームと楽屋の間にある狭い空間を抜けていこうとした時、ポールは立ち止まった。記憶が甦ったのだ。「僕ら、このスペースで1曲レコーディングしたね」と彼は言う。「僕はここにいて、リンゴはあそこ(指差す)、ジョンはそこで、ジョージはそこだ」

自分をつねりつつ、僕は最近発表された『ローリング・ストーン』誌の巻頭インタヴューのことを思い出したのだが、その中でポールは“ヤー・ブルース”について語っている。「僕たちは、窮屈な感じについてこぼしていたんだ、あの缶詰にされたような感覚についてね」と彼は語っている。「それで僕らは狭い物置に場所を移した――マイクのコードや何かが置いてあるクローゼットさ。それにドラム・セットもあった。アンプは壁に向けて置いてあった。ジョンのためのマイクも1本。僕たちは『ヤー・ブルース』を演奏したんだけど、それが本当によかったんだ」

そして、この小さな空間に佇み、実際にその場にいた4人の内のひとりから直々に記憶を話してもらうと、1968年に史上最高のバンドがこの狭い場所に入り込んで“ヤー・ブルース”を思い切りプレイしていたイメージが、僕の頭の中に広がっていった。ワオ。とにかくワオ。歴史だ!

昼になると、ポールは、リンゴとロン・ハワード監督と共にスタジオに呼び込まれ、次から次へと2時間続くインタヴューが始まった。リンゴとロンの間に座り、何台ものテレビ・カメラを前にして、ポールはリンゴを見やる。「アビイ・ロード! いい感じだねえ、ベイビー!」かつてのバンドメイトの膝に手を置きながら、彼は愛情を込めてそう言った。

MPL Communications/Charlie Gray

そこからの2時間は瞬く間に過ぎてしまい、ここに集まった誰もが――いろいろなエージェント、マネージャー、広報担当者の他、取り巻きたち――ポールとリンゴが共有する素晴らしい思い出の数々を聞きながら、自分たちの幸運を信じられずにいた。遡ること60年代に、彼らが世界をツアーして回ったことを想像するのは得も言われぬ心地で、ポールの現行ツアーとは対照的だったので、なおさらだった。ザ・ビートルズは、大規模なツアーを行うことにかけては先駆者だ。彼らのキャリアにおいて山ほどのことがそうであったように、彼らが行っていたことを当時はまだ誰もやったことがなかったし、途方もない人気の絶頂に上り詰めようとしていた彼らを支える技術も発達していなかった。2016年だけでも、ポールはすでに、いくつもの巨大な会場において100万人を優に超える人々の前でパフォーマンスを行っている。最先端の音響や映像機器を使っていることで、どこにいたとしても途方もない体験が可能となり、ステージの音やあらゆる動きを楽しむことができる。だが、当時は、映像からお分かりのように、オーディエンスはザ・ビートルズが目の前にいるということが、ただただ信じられないでいた。同じ空間にいる、ということだけで十分だったのだ!

さて、インタヴューに話を戻そう。ポールとリンゴが『リバプール・エコー』紙の独占インタヴューを受け、翌朝2人は第1面を飾り、こんな見出しが添えられていた。「その映画を観れば、昔の仲間たちが戻ってきたかのようだ」

『リバプール・エコー』紙の記事はコチラより

この日の午後のもうひとつの仕事は、アナウンサーのエディス・ボウマンが進行を務めるフェイスブックのライヴ・チャットだった。ポール、リンゴ、そしてロンは、世界中のファンからの質問に答え、インタヴューが終了すると、ポールが引き揚げる時間となった。プロモーション関連の任務は完了した。次なる行き先は翌日の夜のレッド・カーペット――失礼、ブルー・カーペットだ!。

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